2017年7月5日水曜日

文章は僕が下手だと思う

文章は僕が下手だと思う。
だけど僕は天才ではない。
頭の中に天才がいるとして、それを縮小せずに外の世界に召喚できるのが技術だとする。はっきり言って僕の頭の中は大したことがない。その大したことない奴を、僕は技術すらもないからその大したことのなさをさらに縮小した形で外界に産み落とす。
その大したことのない奴に、即興で何かをやらせるのがお家芸だ。
なんとなく僕は自分をそうやって評してる。
平井堅の代表曲のタイトルみたいに視界を盲いてダーツのカウントアップをやると、瞳を開いた時よりも点数が高かったりするタイプだ。
と言ってもさすがに感覚だけで生きていくには、論理を重んじすぎている社会だから、誰の目にも見えないところでついつい批評してしまっていたりする。一つ一つ分解して言葉にしていくのは、悪いことではないけど、そういう言葉には筋道みたいなのが決まっている場合が多い。「だけど」の後には否定的な言葉が選ばれるように。
頭の中に天才がいない僕は、とりあえず吐露した凡人に即席芸者としての生き方を指南する。物事を翻訳していく上で、この感情の言語化という作業は、存在しなかった感情を歩かせることによる先行きの予測不可能感を抱かせてくれる。快感はそういう部分で、パンツをちらつかせる。
事実は小説よりも奇なりと言うが、小説よりも奇なりな事実よりも奇怪な何かを掴みたいという欲深さが僕をそんな風に仕向けるのだと思う。
仮に僕が文章という概念だったとする。その場合、自分(文章)が拙い原因は百パーセント書き手にあるというのが自然な考えだ。
しかし、僕が無理やり嗾けているこの責任転嫁にも近い論考の歩かせ方は、その百パーセントを無効化する。厳密には無効化出来ないが、無効化出来たような気分になれるわけだ。
即ち、僕が文章を下手に書いているのでなく、文章は僕が下手なんだと言えるのだ。
だから、文章だって天才じゃないんだ。
文章は月と太陽だ。
月のように地球に合わせてくれる文章もあれば、太陽のように地球の方に合わせろと強要する文章もある。
月の方が圧倒的に商業的で親切だけどその分、太陽のカリスマ性に周りが周波数を合わせてなんとか読解しようとさせる天才感に憧れてしまう。


文章は滝沢カレンが上手だと思う。らしい。 

2017年7月2日日曜日

フリースタイルダンジョン「 Challenger's CUP」後記

小学六年生で、初めて観た。
僕の家では、当時WOWOWを購読していて常に何かしらの映画が放送されていた。
しかし、WOWOWを観られるのはBSチューナーのある父の応接間のテレビだけだったため、気軽に観に行けるわけではなかった。
『学校の怪談』や『リング』シリーズの一挙放送とか年齢相応に観たい映画がないと「応接間で映画観てるわ」と胸を張っては言えない環境だった。

WOWOWは1ヶ月ごとに全番組の載ったパンフレットが送られてくるのだが、僕はその冊子を隈なくチェックするようにしていた。
特に土曜日の番組表は念入りに舐めて味を確かめた。
そして、その理由は土曜日の深夜帯にあった。

小学六年生男子の性的好奇心は、インターネットが一般的じゃなかった時代に満たす手段を選ばせなかった。
WOWOWでは土曜日の深夜1時に必ずR-15指定の映画が放送されるのだ。
そのほとんどはB級のポルノ映画で『くノ一忍法帖』とか『カーマスートラ』とか、あとは実写版の『ふたりエッチ』などが放送されていた。
今から思えば、普通に親にバレていたような気がするが、僕はこれらのR-15指定映画を深夜1時まで自室で眠らずに息を潜め、家族全員が寝静まったのを確認してこっそり応接間に観に行っていたのだ。
テレビの音量を最小にして、すぐにテレビを消せるようにリモコンを死守しながら、命懸けのように映画を観ていたのだ。

毎週のようにそんな阿呆なイベントを自らに課していたら、少しずつポルノ映画のパターンがわかってきて飽きを感じ始める。しかし、ある月のWOWOWのパンフレットにはそんな僕のマンネリを吹き飛ばす、R-15指定の映画が紹介されていた。
それが『パーフェクトブルー』だった。
理由は簡単だった。
それはアニメだったからだ。
女性の裸体を拝めるアニメなんて『ルパン三世』とか『ドラえもん』くらいしか知らなかったから(いや『ドラえもん』は違うか)もう楽しみでしょうがなかった。

というわけで、僕は小学六年生の時、今敏なんか知らないくせに「今」を「敏」感に察知しながら、『パーフェクトブルー』の世界に観入ったのだった。
もちろん、エロ目的で鑑賞したものだから、戸惑いの方が大きかった。
ストーリーはまるでわからない。
ただ、主人公のアイドルに対して「早く脱いで欲しい」と思っていただけ。
実際、ストーリーが進むにつれ、そのアイドルは女優に転身し、レイプシーンやヌードなど仕事を選ばなくなっていく。
小学六年生の僕はただただ「もっと脱いで欲しい」と思っていた。

UMB2006のDVDでDJ MASH氏が確かこんな事を言っていた。
「MCバトルってのはどんだけ皮を剥いたかで決まる」

MCバトルに出続けるということは、何かを犠牲にし続けるもののような気がしている。
レイプシーンやヌードもOKです。と言わんばかりに。
そして、お客さんはそんなことに気付いていない。
小学六年生の僕と一緒。
「早く脱いで欲しい」
それって純粋で残酷だと思う。


さてさて、本題。
フリースタイルダンジョン「 Challenger's CUP」ってのがありましてね。
MONSTER VISIONのリリースパーティーの催しものとして、フリースタイルダンジョンにまだ呼ばれてない人で予選をやるって話をいただいたんですよ。

泥水組と若手組で4人ずつ。だそうです。



そうか、僕は泥水なのか、と。

BOZさんがアルバムを出したり、磯友が配信曲出したりしてたのは知ってたけど、抹が色々してるのは知らなかった。
逆に、僕がアルバムを出すのもそんなに認知されてなかった。
そういう部分が、客観から泥水を連想させるのかもしれない。
ヒップホップっていう大きな世界にコミットしたり、手を繋いだりしてないだけで、幽霊部員のように思われるんだなと。

泳げない人間ばかりを集めたプールで、考え込む。
泳げる側との差異はなんなんだろうって。

今回のバトルそのものがどうだったとか、そういう話を期待している人には申し訳ないけど、戦う相手がそこじゃないってのがはっきりした。

僕は、優れたMC BATTLEのレポートを書くスキルがあるので、それを期待してここまで読んでくれた人にも非常に申し訳ないですが、これは僕の個人のブログなので、僕の個人的な話をさせてもらいます。(増長)

この間のフリースタイルダンジョンの晋平さんと漢さんの試合を、おそらく生まれて初めて晋平さん側に感情移入をして観た。(晋平さんは常に主人公側だから、どうしても僕の性格上ヒール側の気持ちを考えてしまうため)
だから、ROUND3の漢さんの「さっさと手を繋げ」という言葉が重くずっしりと下っ腹に当たった気がした。
ヒップホップに対して、斜に構えてしか接することの出来ない自分が少し恥ずかしくなった。


僕は、6/28にフルアルバムをおやすみホログラムのレーベルからリリースした。平たく言うとヒップホップに強いマーケティングではなく、アイドル側のマーケティングを市場に選んだのだ。
その『パーフェクトブルー』というアルバムは、元々アイドルに提供してた曲のセルフカバー等を収録しているように、歌詞の中の「僕」とか「君」が私生活からかなり離れた場所に位置している曲ばかりが入っている。


チープな言い方をすると「青春ラブソング」みたいな曲ばかりが入っている。
「僕」がギリギリ「君」に届かない歌ばかり歌っている。

総括すると、小学六年生の時に観た『パーフェクトブルー』や、フリースタイルダンジョンの「 Challenger's CUP」や「晋平太 vs MC漢」を一気に思い出したことをきっかけにして、自分がリリースしたアルバムに潜んでる「本音」みたいなのが初めて分かったのだ。

最近、僕は「ヤキソバにレンゲ」という曲をライブで歌う時に「ヒップホップがヤキソバだったら、ハハノシキュウはレンゲ、みたいな曲です」と冗談で紹介しているが、そもそもこれは冗談じゃなくて「本音だ!」って今更、自分で気付いたのだ。

「僕」がギリギリ「君」に届かない歌ばかり歌っている。
僕は「ヒップホップ」が好きなんだなと、じつに普通のラッパーみたいなことを思わされる。
だから、もしも『パーフェクトブルー』を買ってもらえたら「僕」を「ハハノシキュウ」に置き換えて、「君」を「ヒップホップ」に置き換えて、試しに聴いてみて欲しい。
もちろん、向こうから手を繋いでくれることを期待なんかしていない。
こっちから繋ごうとして2mm足りないくらいがちょうどいいのだ。きっと。